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其の二:社会人1年生から電気工事の世界へ

まずは現場の職人として
 

1998年バブル終わりごろ。半強制的に入った「ワコーテック」父の会社ですが、当時一部上場企業大手の下請けとして大型物件の「施工」をしていました。恐ろしく分厚い図面が山積みでした。まずは職人として、三木ホースランドパークや三木青山のサティ、公園や神戸の大型マンションなど職人さんと一緒に働かせていただきました。自分では頑張っているつもりだったのでしょうが、今思うと非常に迷惑だったことでしょう。

 

でもそんな現場での体験は今になって知識として非常に役立っているのは言うまでもありません。失敗もたくさんしました。でもいつも先輩がカバーしてくれていました。工事ばかりしていると人との会話が少なくなります。今の職業からすると「愛想の無いやつ」であったことに間違いはありません。そのまま続けていたら・・・・少し恐ろしい気がします。

 

この時23歳。一年ほど職人経験を積ませてもらいました。現場での作業は真夏・真冬冷暖房も何もない環境下での体力仕事に職人さんたちのすごさを知りました。真夏などは一日に5Lほど水を飲みます。汗も半端なくかきます。
ほんの一か月で5~6kg痩せました。

 

工事現場は職種によって立場の強弱があり電気工事は基本的には建築工事の邪魔にならないように気を使う側の立場でした。でも知らない事だらけでしたので「もっと知りたい」「面白い」と思うようになって行きました。何でも真剣にやると楽しいものです。逆に真剣にしないと何も楽しくないのかもしれません。

次は現場監督として・・・

 

「地下鉄 神戸湾岸線」の現場に放り込まれたのです・・・・。
父親は僕の気質を良く見抜いていた?んだと思います。初日に元請け会社の一部上場企業の担当の人に「よろしく」と一言だけ言って去ってしまいました。

私は「元請?下請け?この人たちは偉いの?」
なーーーーんにも分かりませんでした。

「何したらいいんスか?」というと、みんなしらけた顔で(8人ほど)
「う~ん・・・・」初日は机に座ったまま・・・・相手にしてくれませんでした。
当時の僕は礼儀知らず、敬語知らず、怖いもの知らずでした。
当然下請け会社というのは大手の元請け会社から仕事をいただくわけで、継続的に仕事をいただくことが重要です。当然失礼の無いようにあまり出しゃばらずに上手に仕事をしながら営業することが大切なのです。本来は・・・。

次の日は隣の席に歳の近そうな兄ちゃんが2人いたので名前を聞き・・・勝手に
「そうか・・・今日から君はアリモッチン・・でいこか!」(有本さん)
「そっちの君はモンリーって呼ぶけどええやろ?」    (森野さん)

と下請け(仕事をもらう側)なのに偉そうに悪ふざけでアダ名をつけたことを覚えています。当然オールため口です。よくよく聞いたら2,3年上でしたが
「ええやん!今更態度変えたらおかしいやろ?」
と何の悪気も無くそのまま突き通したことを覚えています。彼らも下請けの若造に初日からアダ名をつけられると思っていなかったのでしょう・・・。

結果的には新鮮だったのか、初日から同級生のように本当に仲良くさせてもらったことを覚えています。そこでも若気の至りで随分と出しゃばった事をしたかもしれませんが、上場企業のような大きな会社の仕組の良い所、余り良くない所など、色んなことを肌で感じました。そこの方々にも色んなことを教えて頂きました。特にパソコンに詳しい方が一人おられ、LANのネットワーク構築等で非常に勉強になりました。自分自身で配線からLAN構築できたことで後々のシステムづくりに非常に役立ちました。

若かったのでやっていたことは無茶苦茶だったかもしれませんが、本当に勉強になり「日本にはこんなスケールの大きい仕事もあるんやな」と思いました。

 

また地下鉄のようなスケールの大きな工事(毎朝朝礼では100人以上の職人さんが並びます)にかかわったことで人間性も非常に変わったのだと思います。
地下鉄などは一つ忘れ物をすると2~3キロ歩いて帰らねばならずトイレも大変・・・さらに一つ気を抜くと死亡事故が起こるような現場でしたから、職人さん達の命を預かる責任の重さを感じたことを覚えています。僕自身もボルトが一本止まっていなかったら確実に命を落としていたという事件がありました。

自分で勝手に死ぬのはいいけど、他の方に迷惑をかけてしまう所でした。本当にいい経験でした。本当に仕事にかかわる皆さんには良くして頂き、許容して頂いたと思います。この時24歳でした。

今度は県営住宅(箱物建設現場)へ

 

ちょうど慣れて楽しくなってきた頃、地下鉄半ばで小野市内の県営住宅新築
8戸×5階/40戸をさせてもらいました。ここでも父親は図面を手渡しただけ。

なーーーーーんにも分からん。
地下鉄も同じく、ここにも父親はほとんど来てません・・・。

多分他の事で忙しかったんでしょうねえ。

でも父親も勇気がいったと思いますよ・・・ほぼ何の知識もない僕に出来ると思って任したのだろうか?そのほったらかし具合が本当に尊敬します。
僕だったら出来ないかもしれません。大赤字もあり得ますから。

元来は他の会社などで経験を積み「よその釜の飯を食う」ことで色んな事を身に着けることも考えたかもしれませんね。

大型工事の場合実行予算が数千万円という単位です。もちろん失敗すればすぐに何百万円という赤字が出るような仕事です。
レベルは市営、県営、国営とレベルが上がっていき、承認をもらったり話をする場所も市役所、県庁、など変わって来ます。

ここでも運よく・・若かっただけかもしれませんが建築監督やイカツイ型枠工事の職人さんたち、鉄筋工事など、たたき上げの職人さんに非常にかわいがってもらいました。僕は基本的にどんな状況でも楽しもうとするタイプですが、この現場も本当に楽しかったことを昨日のように覚えています。腕っぷしには自身があったのでよく若い型枠大工さんたちと腕相撲をしました。

そんな中でも型枠職人さんは皆若くエネルギッシュでした。
若くして「社長」というか「頭」というか何十人もの職人を束ねる職人さんがいました。25歳そこそこなのに、人一倍オーラが違うのです。
口数は少ないけれど、何十人もバリバリに作業している中でもすぐに分かるほど違うのです。動きも、指示も効率も、目配りも。

日当を払う側ともらう側、ここまで違うのかと思い知らされました。
人一倍の苦労と覚悟が体からにじみ出ているのです。

みんな本当に僕のような若造にも気を使って下さいました。
しかし自分の電気工事といえば誰も教えてくれないので、そこらじゅうの県営住宅を実際に行って研究して回りました。給湯器などが納まっている配管部分や収まり施工方法など、住民に怪しまれながらも検針のふりをして見て回って研究し、何とか無事県営住宅を仕上げました。若かったので徹夜もたくさんしました。

本当に全く分からないことばかりでしたが、ここでも建物の仕組みや大変さ、建物の所轄や所有、権限など色々なことを学ばせてもらい、現在の血となり肉となっているのです。実際の現場を見ることで内部の構造や材料なども良く理解できるのです。

当然失敗も沢山ありましたが、死ぬ気で考え抜くと必ず解決方法があること、絶対に逃げず本気で取り組むと周りが協力してくれること、など色々有難い体験をさせてもらいました。人生に遠回りは無いのだと感じました。そして僕自身の素材としては職人よりも監督業の方が向いている、楽しいし広い視野で物が見れる、自分の話し方や進め方次第でそれなりの方向に持っていけることが分かってきました。この時24歳でした。

工事の世界から福祉の世界へ

 

そんな電気工事の現場を何件かして「工事」とは現場ごとにきちっと区切りがあり成果が目に見える。分かりやすい達成感を得ることが出来る素晴らしい物だと感じました。非常にやりがいのある仕事でした。時期はバブルのはじける手前、いやバブルがはじけた直後だったのです。

僕はまだ現場で一生懸命だったのですが、工事業界、いや建設業界ではバブル後恐ろしい倒産ラッシュが待っていました。当然下請けメインだったワコーテックも影響がないはずがありません。毎日家族で会議をしました。

最終的には「ワコーテック」の名前は残すものの父の英断で30年間やり続けてきた電気工事業に事実上終止符を打つ決断をしました。

というより最終的に電気工事は「2足のわらじは履けない」と強く断ったのです。
やはり、やめるのは非常に惜しかったのだと思います。
廻りの関係者も規模の大きさゆえに非常に惜しんでおりましたが、父にはきちっと先が見えていたのだと思います。

僕と兄で福祉の会社を立ち上げることを決めたのです。その頃ちょうど25歳。今の嫁さんと知り合い結婚した年です。非常に不安定でまさに「背水の陣」。この事業で失敗したら何もかも失い0からのスタート。

非常に張りつめた面持ちで各現場のもろもろを整理しながら準備しました。
工事の人間から福祉の人間へ・・・そんなこと自分にできるのだろうか?現場でヤイヤイ言っているのが大好きだったのにそんな事やっていけるのだろうか?当然不安の方が大きかったのを覚えています。

ただの建築現場のにーちゃんでしたから・・・。